50代の僕たちは、思い出すだけで、身悶えしてしまう、恥ずかしい、そんな堪らない「あれ」とかの話をするのだ
記事:西部直樹(ライティング・ゼミ)
とある病院にて
患者「先生、最近物忘れがひどくて、困っているんですよ」
医者「それは、お困りですね。いつ頃からですか?」
患者「え、なにがですか?」
友人は、得意げに鼻を広げ、笑いをこらえている。
妖艶な人妻は、フンと鼻で笑った。
私も、ふふ、と苦笑めいた笑いを返した。
「この間、落語をききにいったら、やっていた小咄なんだよ、笑えるだろ」
と友人は、自分で作ったかのように自慢する。
「私も、最近は、物忘れがけっこうあるわ。人の名前が出てこないのよ、ほら、アレ、アレにでていた、あの人、ここまででているんだけどってね」
妖艶な人妻は、喉元に手を当てて笑う。
「僕もだよ。名前が出てこない。しばらく会っていない担当者なんか、名前が出てこなくて、もう困るよな。誰でした? って聞くわけにいかないしな」
私も苦笑いをする。
「俺は、部下と常務の名前を取り違えて、嫌な顔をされたよ。片方は田中芳樹で、もう一方は中田芳樹なんだ。どっちがどうだったか、間違えるといけないと思えば、思うほど混乱するんだよな」
と、友人は情けない顔をしていう。
「それって、顔の特徴で覚えるとかできないの。鼻の大きな田中、ホクロの中田とかさ」
と、妖艶な人妻のアドバイス。
「田中常務、中田後輩でいいんじゃないの」と、わたし。
「そうなんだよ、そう思うだろ、俺もそう思う。なのに、間違える。分からなくなる。やれやれだ」
友人は、深く溜息をつき、ほとんど炭酸のハイボールを飲み干す。
「そんな、恥ずかしいことって、思い出すと身悶えしない?」
と、体をクネクネさせながら妖艶な人妻が言う。
「ああ、思い出して、もう、恥ずかしい、穴があったら入りたい、入れたいって、やつか」
薄いハイボールで顔を赤くした友人が言えば、
「相変わらず、ゲスいね~」
と、妖艶な人妻にこづかれる。
「あるよ、街を歩いていたら、向こうからちょっと綺麗な人が、手を振りながら来るんだ、こっちを見て。誰だったかなあ、でも綺麗だからいいかなあ、なんて想いながら、こっちも手を振っていたら、僕を通り過ぎていくのよ。僕の後の人に向かって手を振っていたんだな。これが。しかたないからさ、手を振ったまま、小走りで去っていったよ」
私は述懐した。懺悔をするかのように。手にしたワイルドターキーの薄い水割りを弄びながら。
「俺もなあ、人にはいえないけどさ、あるよ。身悶えするようなこと。
学生の頃、胃を悪くしてさ、胃炎とか潰瘍を患ってな。それで検査で、ほら、レントゲン撮るじゃない、そのときバリウム飲んだのよな。撮る前は断食してさ、それで、バリウムは美味しくないじゃない、それと一緒に発泡剤とかも飲まされて、ゲップしちゃいけないとかさ、検査で体悪くしそうになる感じだよな。
それで、レントゲン撮ったあとは、腹減っているから、よし、何か食べるぞと、意欲満々なわけだ。
それで、カツ丼なんか食べてさ、腹はいっぱい。
でも、カツ丼の前には、バリウムが入っているんだよな、からだには。
そして、バリウムは消化も吸収もされないんだ。真っ直ぐ、一直線に出口に向かうわけだ。
あっと思ったときには、いやあ、ちょっとだけ、間に合わなかった。
不自然に内股で、家まで帰って、あれは、つらかったなあ」
友人は、さも自慢そうに語るのだった。
「二人とも、ゲスというか、つまんないことに身悶えしちゃっているわね。ネットに転がっているあるあるネタみたいなもんじゃない。もっと、ああ、それはもう正統な、由緒正しい身悶えだ、ってのはないの?」
と、妖艶な人妻は白子ポン酢をつまみながら、絡み出す。
「そうは言われても、今思い出せるのは、これくらいで、って、そういうおまえはどうなのよ、どのくらい身悶えするのよ」
と友人が絡み返す。
「もう、しかたないわね。これ言うと、身悶えしちゃうから、いやなんだけど」と、越乃寒梅の枡を傾けつつ、妖艶な人妻が語りはじめる。
「その頃さ、って、若い頃よ。その頃、遠距離恋愛していたのよ。東京と名古屋で。その頃、シンデレラエクスプレスとかいってさ、新幹線の最終は、なんかそんなのばっかりだったじゃない。私も、名古屋の彼が週末に遊びに来て、最終で帰るのを見送る、なんてことしてたのよ。
それで、ある時、ちょっと彼を驚かせてやろうと思って、最終で見送って、発車するちょっと前に帰るふりをしたのよ。何か言い訳してね。タタタッと階段降りて、違うところから階段駆け上がって、彼と同じ新幹線に乗ったの。
その時は、世界階段上り下り選手権あったら、間違いなく日本代表候補にはなれるくらい速かったな。
名古屋に着いてから、驚かそうと思って、別の車両でじっとしていたのよ。
まさか名古屋にいるとは思わなかった、とか、
別れてはずなのに、また会えるなんて、嬉しいとか。
彼を驚かせたら、どんな展開になるのか、想像していたのよ。
それはもうワクワクでさ。
名古屋に降りたところで、ホームで彼のところに行こう、
そして、
『あ、ホーム間違えちゃった、東京駅のホームだと思ったら、名古屋のホームだった!』見たいなギャグも織り交ぜよう、
彼は驚き、笑ってくれるだろうとかね。
そして、名古屋について、ホームに降りて、彼が降りる車両の方を見たら、
そしたらさ、彼を知らない女が待っていたのよ。
彼もその女に向かって、にこやかに手を振り、抱きついて、キスまでしてやがんの。
とんだ茶番よ。
私はそれを見て、動けなかった。
その時彼が、ちらっと振り返ったのよ。
私がいるのを見て、目を丸くしていたわ。
それを見て、思わず閉まりかけた新幹線に飛び乗った。
その日、彼が乗ったのは、本当に最終じゃなくて、何本か前の新大阪ゆき最終だったから、私は新大阪まで行って、翌朝帰ってきたわよ。
ふう、思い出しても、悲しい、悔しい、おぞましい。彼とのラブラブの会話を想像していた私が恥ずかしい!」
と、妖艶な人妻は、越乃寒梅の枡をテーブルにドンと置き、天井を仰ぎ、深く溜息をついた。
「フン、それもよくある話じゃないか、それで別れたんだろう?」
と、憎まれ口を叩く友人。
「もちろんよ。それ以来音信不通にしてやった」
と、憤慨気味に妖艶な人妻は組んでいた足を解き、ヒールで床を叩く。
「身悶えと言うより、怒り心頭だな。で、ミニスカートで足開くのは、まあ、いかがなものかな」
と私は優しく指摘をする。
「何を見てんのよ。これは、ミニスカート風で、下はホットパンツなの」
妖艶な人妻は、パレオを捲り、ショートパンツを見せつける。
「ホットパンツって、昭和だな。
しかし、そのタイプの、スカートなんだか、パンツなんだか分からないのは、気に入らないな」
友人は、少々怒りを込めて言う。
「そうだ、ミニスカートかと思ったら、パンツって言うの、なんていったけ? ほら、あれ、一時流行ったような、あれ」
私も友人に便乗して言おうと思うのだが、そのパンツかスカートかよくわからないものの名前が思い出せない。
「ああ、あれな。あれは反則だよな」
と、友人も同意する。
「あれって、あれのこと。あれ、なんていったっけ。しばらく履いていないからなあ」
と、妖艶な人妻も思い出せない。
「でもさ、忘れるのも、悪くないね」
妖艶な人妻は、八海山のグラスを傾けながら、しみじみと言う。
「あの時の辛さや、悲しさは、だいぶ忘れた。だから、今があるんだよ」
と妖艶な人妻は続けた。
「ああ、俺もだいぶ忘れたなあ。色々あったはずなんだけど。バリウムのことしか思い出せない……」
友人は、薄いハイボールを飲み干す。
「まあ、そういう忘却力がついてきた、ということだな、我々は」
と締めるように私が言うと
「何を偉そうに、ふふ、あれの名前も思い出せないくせに」
と妖艶な人妻が茶々を入れる。
「そうだ。あれは、なんだっけ、気になるなあ、思い出せよ。ああ、ここまで出ているのに。あのスカートもどき」
と、友人は喉元に手を当てて、もどかしげだ。
その後、あれだ、それだ、なんだと、指示代名詞ばかりで会話は続いた。
もう、忘れるのは日常茶飯事の年頃だ。
物忘れは、困りものだ。
しかし、忘れることは悪くない。
思い出せないのだから、身悶えすることもないじゃないか。
忘却力、バンザイ!
《終わり》
***
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